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廣瀬屋永田家の林業経営

  • 執筆者の写真: forstwald2019
    forstwald2019
  • 1 日前
  • 読了時間: 2分

 以前から気になっっていた天川村の林業の歴史。吉野林業地に隣接していながら流域が異なることで、吉野林業地とは異なる道を歩んできた。天川村の近代林業は永田家によって牽引されてきたと言って過言ではない。

 「近代吉野林業と地域社会 廣瀬屋永田家の事業展開」という書籍がある。しかし、一冊七千円ほどするので、国会図書館で読ませていただくことにした。


 天川村は十津川流域の最上流であるが、吉野川流域(吉野林業)の拡大戦略として、開発されてきた。大正時代初期には下市口〜天川村川合まで洞川電気索道が木材や物資の運搬電気の供給に開発され、今、役場のある沢谷には永田神童子山製材部の巨大な製材所があり日本国内でも最大級の施設だったとのこと。110年ほど前のことである。吉野林業全書が約130年前に書かれた本で、その挿絵を見ると山村の民の装束が大昔のように思えるが、さほど違わない時代。天然林の八尺以上の木だけを伐倒し環境保全には影響がないという伐採計画を策定し、伐採後には植林を行わず天然更新に任せる林業を行ったとのこと。それまで行ってきた永田家の吉野林業とは一線を画す林業を実施したという。

 枝状に木馬道が入り、幹線の川迫川をトロッコが走り奥地の資源がどんどん沢谷の製材所に運び出されたのであろう。計画期間終了後巨大な製材所も閉鎖されたという。

 もう一点驚かされたのが。樽丸について。和田では樽丸が生産され陸路で五条方面に出されたという。当時でも和田には吉野材に近いスギを生産する技術があったということなのだろうか?この部分の詳細な記載は無くわからなかったが、天川村西部では吉野材に匹敵する良質材を生産することができたのかもしれない。

 林業のスパンは長い、100年なんて、ついこの間の話だが地域社会は色々変わるものだ。この時代にはこのように時代を大きく動かす事業を牽引する人がいたことにも感銘を覚える。



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